親子ヒストリー

親子二人の写真
傍楽副代表
(娘)
カルダー友美
Tomomi Calder
傍楽代表
(母)
駒井亨衣
Yukie Komai
親子ヒストリー

「子育ての概念が180度変わった」親子の話

不登校や思春期の頃はなかなか心を通わせることが難しい関係性だった駒井親子。
今では、傍楽をともに運営するまでの仲になった私たちを身近に感じてもらえるとうれしいです。
より自然な形で話せるインタビュー形式でお届けします。

(インタビュー:大谷 春佳)

―駒井さんが傍楽をはじめるキッカケでもあります、子育てをしていて本当に困ったこと、悩んだときのことを教えてください。

駒井さん(以下、母):本当に困ったときは、やっぱり不登校になったときよね。それまでは親の圧力で、なんとかねじ伏せてきてたから(笑)「なんとか」は、なっていました。
だから不登校になったとき、初めて「なんともならない」ことが起こった。今までのねじ伏せてきた技では、どうにもならなかったのよねぇ。

―それは、友美さんがおいくつのときですか?

母:友美が高校1年の6月から五月雨登校を始めて、9月で完全に不登校になって、弟の優一は学校行かなくなった姉をみてすぐに「俺も行かない」と言って中学2年の秋から行かなくなった。このタイミングやね。

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子どもに厳しくすることが「ちゃんとしたお母さん」。

―それまで駒井さんは、どんなお母さんでしたか?

母:「べきねば思考」でずっと生きていました。例えば、私の母から「子どもは20時には寝かさないといけない」とこんこんと言われていたので、疑いもせずそれをずっと守っていたとか。

―毎日かかさず?

母:ほぼ、毎日です。

友美さん(以下、娘):この「20時就寝」には例外がほとんどないんです。
子どもが寝たい、寝たくない、今日は特別にいっか~とか、関係なく「やらなあかんことやから、やる」。軍隊みたいな感じで容赦なくやってました。

母:今思うと変なんですけど、その場で誰も見張っていないのに、常に何かに支配されてました。他の家事もすべてです。ご飯も完璧につくって、掃除も毎日完璧にやることが「ちゃんとしたお母さん」なんだと信じてました。
だから子どもがどう思うかとか、考えたこともありません。私にとって「子どもとは、厳しく躾ないといけないもの、甘くしてはいけないもの」でした。私や子どもがやりたいか、やりたくないかじゃなくて、そういうもの。辛くはなかったけど、毎日全く楽しくはなかったですね。粛々とやってる感じです。子どもが不登校になるまでは、そういう子育てをずっとしてきました。

母は、絶対的な存在。

―友美さんにとって、どんなお母さんでしたか?

娘:神様というか「絶対的な存在」って刷り込まれていました。だから、自分の考えなんてないし「お母さんの言ってることが正しい」って信じ込んでいた感じです。

母:こうやって聞くとほんまにやばい母親やな(笑)

娘:母親教に入ってた(笑)洋服ひとつ、好きなものを選ばせてくれなかったです。最初に「好きなもの買っていいよ」とは言うけど、いざ自分で選んだら「そんなんやめとき。どこ着ていくつもりなん」と。結局、母が選んだ服しか買えないし着れないって感じでした。あと、母は「色んなことを教えてくれない」ってずっと思っていて。

―「色んな」とはどんなことですか?

娘:私は疑問がめちゃくちゃ多い子どもでした。社会や人に対して、素朴に「なんで?」って思ってしまう。それに対して、母は「わからん」「そんなんしらん」の一言で終わり。私は、一緒に考えてほしかったです。

母:子どもと親には、上下関係があるもんだと思っていました。だから何を言われても「子どもは黙っとき」と制してましたね。

―当時の様子がよくわかりました。いま振り返ると、厳しくて怖いお母さんかもしれませんが、絶対的な存在だったからこそ、お母さんのことは嫌いではなかった?

娘:嫌いではなかったですが「好かれてないな」とは思っていました。母は、優一に対しては甘々だったのに、私にはとても厳しかったので「嫌われてんのかな」と。

思い通りにならない、ややこしい娘。

—弟さんの話がでましたが、駒井さんにとって、友美さんはどんな娘でしたか?姉弟の違いはありましたか?

母:決定的な違いがあって、友美は私の言うことを聞いてくれる。我慢して聞いてくれるし、従ってくれるから、私もどんどん言っちゃう。友美に甘えていたんです。
でも優一は、小さいころから全く言うことを聞きません(笑)なので「言ったところで…」という感じで諦めていました。

娘:でも私には、「あんたの方がややこしい」とよく言ってたよね。

母:そうそう。友美は子どもなのに理屈っぽいし、「なんで?」が多い。私は生活していても疑問に思うことってない人間だから、答えにいつも困っていました。

娘:お母さんの口癖は、「そんなことより、早よ食べ」「そんなことより、早よ着替え」だった(笑)

母:「早よ早よ(早く早く)」ってとにかく言ってたね(笑)。友美は何でもゆっくり時間のかかる子だったので、イライラすることが多かったです。

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娘:ずっと「ややこしい」と言われてきました。だからといって、優一のように母をスルーすることができないんです。どうしても親の顔色をうかがってしまうというか。「お母さんなに考えてるんやろ」「お父さんはどうかな」って常にみてました。

母:友美は、小さい頃からよく気が付く子ではありました。私に優しいし、心配してくれるのは優一より友美が圧倒的に多かったです。

娘:絶対的な存在と言いつつ、抜けているところも知っていたので。母は忘れ物が多かったので、「これ持った?」とかよく聞いてたね。でも、家の中ではお母さん、お父さん、優一はどちらかといえば似ている。私だけややこしい子扱いで、ずっと疎外感がありました。

「しんどい」と言っても、信じてもらえない。

では、学校へ行きたくなくなったときの、友美さんの心境を教えてください。

母:不登校になったときは、もうストレスの限界やった感じよね?

娘:ストレスと抑圧がかかり過ぎて、精神が疲れ切っていました。高校へ進学するまで、母から「進学校に行けないなんて人生終わり」と脅されながら育ってきました。
私が行った高校というのが母の母校で、母自身はそこに入学してめちゃくちゃ楽しい高校生活を過ごせたので「ここに行ったら人生絶対楽しくなる。入れなかったらしらんで」と言われてました。でも、いざ入学してみると全然合わない。制服がなく髪型も自由な校風なのに、みんな何かに縛られてるようにみえました。放課後一緒に楽しめる友だちもいませんでした。

母:家も学校にも自分の居場所がなかったんやね。

娘:高一の6月から五月雨登校が始まって、完全に行けなくなったキッカケは8月、夏休みに入って地元の友だちと会ったとき。久々に会う友だちが、みんな人生をめちゃくちゃ楽しそうに過ごしていました。

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「進学校へ行けないと人生終わり」だと思い込んでいたのに、地元の高校へ行ったり、学校に行かず働いている子たちの方が、自分よりずっと人生楽しそうにしている姿を目の当たりにして「私が信じてきたものってなに?」「ちゃんとした学校行っていれば幸せが保証されるんじゃなかったの?」っていう。そこで今まで信じていた価値観が崩壊したというか、本当に混乱しました。
学校へ行かなくなってからも「行きたいのに行けない」「絶対行った方がいい」という思いがずっとありました。しんどいことも、本当は行きたい気持ちがあることも、母はなかなか信じてくれなかった。それがつらかったです。
9月に入った朝、急に肋骨あたりがものすごく痛くなって、私の顔が真っ青になっているのをみて、母はやっと私が病気だと信じ、病院で肋間神経痛と診断されて、私も「やっと自分に病名がついた。戦いが終わって休める。」と安心しました。そこから、本格的に昼夜逆転生活がはじまりました。

子どもは、私を苦しめる悪魔。

「学校へ行きたくない」と友美さんと優一さんに言われたとき、駒井さんはどんな心境でしたか?

母:「なんやろこの子らは、私を苦しめる悪魔や!」と本気で思いましたよ、2人ともに。

娘:「恩を仇で返してくるやん」くらいやな(笑)

母:ふふふ。(笑)「こんな一生懸命やってきたのに、なにが文句あんの!」ってね。そんな感覚が最初はありました。「この不登校は誰が悪いのか」っていう責任追及モードに入ってましたね。悪いもの探しをずっとしていました。

その子どもたちへの怒りは、実際にぶつけることはあったんですか?

母:もちろんぶつけてましたよ。何度もケンカしたり、「学校行かへんようになったらどうなると思ってんの!」と脅したり、無理やり連れていくこともしました。

娘:「行くんやったら何でもいい」っていう母の価値観で、あの手この手いろんなことされましたね。「熱ないねんから行きなさい。病気じゃないねんから行きなさい」の一点張り。「学校行かへんってことは、悪いことしている。あんたは、悪いことをしている」って。
でもこれは不登校になったから言いだしたわけではなくて、その前から「お母さんの言うことは絶対」があった。

母:そうそう、君臨してたから(笑)そのときは毒親で、何でも子どものせいにしていました。

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救われた場所は、病院でもカウンセラーでもなかった。

―姉弟そろって不登校になり、駒井さんはどうしましたか?

母:夏休みがあけてから学校に通ってくれると、まだ期待していましたね。でも友美の生活が昼夜逆転して、体が全く動かなくなった姿をみて、「これは本当にやばい」と感じました。
まずカウンセラーへ相談しに行きました、3軒続けて。でも3ヵ所とも話が通じないというか、全然わかってくれる感じがしない。
ただ仕事で聞いてる感じで「ここでは全然救われない」って心底思ったんです。たまたま3軒目の先生が親の会を勧めてくれて、すぐに行きました。

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私は「子どもたちを治したい」と思って行ってるのに、そこのお母さんたちに「10年かかりますよ~」と言われて、もう頭まっしろ(笑)
皆さんケロッとした顔で「そんな簡単なもんじゃないですよ~」って言うもんだから、「一体どうなってるんやろこの人たちは」ってビックリしました。
そこから、親の会に毎月通うようになりました。お友だちができたり、「私はひとりじゃない」っていう感覚を知って、あのとき私は救われました。
この経験が、いまの傍楽に通じています。
子どもの状況は変わってないけど、私はそこで自分を変えられた。
当時は、家族4人がそれぞれ孤独で、それぞれ悩んでいることがあって、でも私は有難いことに外の人と繋がれることができたんです。

親子でも、わからないことはある。

―友美さんは、お母さんの変わる様子を隣でみて、どんな気持ちでしたか?

娘:母は親の会で色んなことを学んで、子どもへの執着が手放せたことで「子どもを見守ることに徹しよう」と思っていました。けど私にとっては、「いままで散々抑圧されてきてた分、見守るというより突然放置された」という感覚。本当は、私の悩みを聞いてくれたり、一緒に学校探したり、考えてほしかった。

母:そうやね。私はわかろうとしてはいたけど、一緒に考えることはしてこなかったです。ひどいことをしてきた意識はものすごくありました。「これは一生謝り続けなあかんやつや」という覚悟はできていたし、私がこれから出来ることは見守ることだと思っていました。でも、それは友美が本当に求めていた形ではなかったんですよね。だからバケツに穴が空いてるみたいに、私がいくら注いでも伝わらない。お互いの感覚が違い過ぎたんです。これはHSPの子どもと、非HSPお母さんあるあるだと思います。意思疎通は、ちくはぐなままでした。

笑い合える日を信じて。

―ちぐはぐな親子関係から、いまのような距離感になったのはいつ頃ですか?

娘:このちくはぐ感は、徐々に緩和しつつも、私が30代半ばになるまでは続きました。

母:友美が一番求めていた「寄り添う」ってことが、私にとってはものすごく難しい、わからないことでした。
それは自分の親がそうだったから。母も父も勝手に決める人で、私も自分のことを親に相談したことがなかったし「そういうもの」だと思っていました。
誰かと相談し合う経験値があまりにもなかったので、友美の求めているものが何かわからなかったんです。でも、友美が時間が経つにつれ「あのときのお母さんは冷たかった」「本当はもっとこうしてほしかった」と言ってくれるようになりました。
そのときに、「ごめんね」と謝ることしかできなかった。その関係がかなり長かったですね。

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娘:分岐点は、お母さんが経営者として自分の在り方や社員さんやお客さんとのコミュニケーションなど色んなことを学ぶようになった頃だったと思います。
私もその頃にはカナダに行っていたので、お互い物理的な距離もできました。
離れてからも、一緒に自己啓発プログラムを受けて共通言語ができたり、HSP(Highly Sensitive Person・繊細さん)の概念を知って「私たちは決定的に違うんだ」とわかったり。一つの出来事というよりも、それぞれが色んな学びを続けたから、少しずつ心の距離が近くなってわかり合えるようになったという感じです。

母:私は、HSPの概念を知ったことが特に大きかったです。今まで「めんどくさい人」だったのが、理由がわかることで「それはしんどかったよね」と理解することができました。

娘:親子であっても決定的に違うっていうことを知って、「違っていいんだ」と楽になりました。

―お互いに努力し続けたからこそ、いまの関係性があるんですね。最後に、これを読んでいる方へメッセージをお願いします。

母:いつも私がお伝えしていることは、まずお母さんが元気になって、自分の人生を歩むこと。
子育てに特効薬はありません(笑)時間がかかると言われると、気が遠くなるかもしれませんが、悩みをきっかけに本音で話せるかけがえのない仲間ができたり、家族関係や人間関係が前進したりします。それは豊かな人生につながっていくのです。
私は、子どもたちの不登校によって、自分の人生を大きく変えてもらいました。そして、傍楽で出会った人や出来事は私の宝物です。

プロフィール

駒井亨衣さん写真
駒井亨衣
Yukie Komai
1977年
大阪府立春日丘高校卒業/ダイキン工業入社
1981年
結婚/退職
1982年
友美誕生
1984年
優一誕生
1995年
父が経営していた株式会社ナオミに入社
1997年
2人の子どもが2年間不登校に
2010年
代表取締役となり9年間経営
2014年
学び舎傍楽を始動
2018年
自己啓発プログラム受講
2020年
会長就任/HSPメッセンジャー取得
2022年
退職

今後は、傍楽の活動をしながら、夢であった新しい教育が提供できる小学校(オルタナティブスクール)を計画中。元小学校教師の息子と数年中に関西圏で開校予定。

カルダー友美さん写真
カルダー友美
Tomomi Calder
1997年
高校1年生から2年間不登校し、退学。
2003年
短期大学卒業
2004年
カナダへ語学留学
2008年
結婚
2011年
カナダに移住
2016年
キャンベルカレッジ卒業
2019年
傍楽へ加入/自己啓発プログラム受講
2020年
第一子出産/HSPメッセンジャー取得

HSS型HSP気質を持っており、転職回数10回以上。現在は傍楽を運営しながら、算命学とタロットの鑑定士を行っている。